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曼珠沙華<ひがんばな> [■CLASSIC<歌曲>]

 
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20130417_Yumeji_Takehisa 13 / sorarium


       
さて…今日ご紹介する曲が

こちらも会のステージで披露した

究極の「泣ける歌」…

『曼珠沙華<ひがんばな>』なの~~っ



* * * * * *



451658476388852.jpg   今日も当時の記事でご紹介するんだけど
   今回…Youtubeを探しなおしてみたの~~

   聴いていくうちに
   日本歌曲の「初歩の初歩」の
   タブーをおかしている
   歌い手が多くてびっくりしちゃったの~



8661601037_2a31b95778_m.jpg  カウンターテナーの
  米良美一氏はきちんと
  歌ってらしたけど…
  ミュージカルの石丸幹二氏!?は
  全然できてないわ~~

  他にもステージ録音の女性…
  恥ずかしいっ
  (日本語のお約束じゃないの…
  どなたにもご注意をうけてらっしゃらないの!?)
20130417_Yumeji_
Takehisa 7 / sorarium

  結果古いレコードをチョイスしたわ
  ちょっと聞きにくいかもだけど
  …
  素敵なの~~♪

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  記事の後半に出てくるんだけど
  山田耕作先生のご指摘の
  そのおどろおどろしさと言ったら
  他に例をみないほどよ

  普通じゃないの
  普通にキレイに歌っちゃだめなのよっ


54986168765.jpg  だから…だからこそ

  かの…山田耕筰が求めているわ
  あたしに歌ってほしいって
  うふふ♡




奥田良三 Ryozo Okuda - 曼珠沙華 (ひがんばな) (1936)




中沢 桂 「曼珠沙華」





  GONSHAN  GONSHAN
  何処へゆく。
  赤い御墓の 曼珠沙華、曼珠沙華、m_21541659591_16fefc715c_m.jpg
  けふも 手折りに来たわいな。 
  GONSHAN GONSHAN  
  何本か。 
  地には七本 血のやうに 血のやうに、
  ちやうど、あの児の歳の数。
彼岸花 / Shoichi Masuhara

  GONSHAN 
  GONSHAN 
  気をつけな。 
  ひとつ摘んでも
  日は眞晝日は眞晝、
  ひとつあとからまたひらく。

  GONSHAN 
  GONSHAN 
  何故泣くろ。

istockphoto-613884102-612x612.jpg  何時まで取っても曼珠沙華
  曼珠沙華
  恐や赫しや、
  まだ七つ
  (GONSHAN:良家の娘、柳川方言)

曼珠沙華 / skasamatsu



  こっ…
  これは~~っ
  ……
   
  どういうことなの!?



  「GONSHAN」が
  良家の娘だとして…istockphoto-1467555473-612x612.jpg
  そこにはお墓があるのよ…
  そこに…彼岸花が咲いていて
  毎日摘みにいくのよね!?

  それが何本かと言うと七本なの~
  血のような彼岸花を
  摘むのは七本……

  それは「あの娘」の年の数なのよ~~
  彼岸花が真昼には
  次から次から咲いていくの~~

  GONSHANはいつも泣いているわ
  どんだけとっても
  いつまでとっても
  曼珠沙華はistockphoto-1434284232-612x612.jpg
  ……
  曼珠沙華は
  怖くて
  赤くて…
  また七つ咲いているのよ




  さっ
  ここで少し曲の背景について
  お話ししておくわ~

  この曲は北原白秋の詩「AIYANの歌」に
  山田耕筰が作曲したものなの~
  「AIYANの歌」は5つの詩からなる5部作で
  『曼珠沙華』は4番目の「Ⅳ」となっているわ

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  (Wikipediaより)
  山田 耕筰(やまだ こうさく、Kósçak Yamada、
  1886年(明治19年)6月9日-1965年(昭和40
  年)12月29日)は日本の作曲家、指揮者。山田
  耕作としても知られる。
  東京府東京市本郷(現在の東京都文京区)の医
  師でキリスト教伝道者の父の下に生まれる。18
  96年10歳の時に実父を亡くす。姉の夫のエドワ
  ード・ガントレットに西洋音楽の手ほどきをう
  ける。14歳のとき、関西学院中学部に転校。
  同本科中退を経て1904年東京音楽学校予科入学、
  1908年東京音楽学校(後の東京藝術大学)声楽
  科を卒業。
  1910年(明治43年)から3年間、三菱財閥の総
  帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツ・ベルリン
  音楽学校(現在のベルリン芸術大学)作曲科に留
  学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。
  日本語の抑揚を活かしたメロディー
  で多くの作品を残した。日本初の管81UeCNKNepL._AC_UL320_.jpg
  弦楽団を造るなど日本において西洋
  音楽の普及に努めた。また、ニュー
  ヨークのカーネギー・ホールで自作
  の管弦楽曲を演奏、ベルリン・フィ
  ルハーモニー管弦楽団やレニングラ
  ード・フィルハーモニー交響楽団等
  を指揮するなど国際的にも活動、欧
  米でも名前を知られた最初の日本人
  音楽家でもある。

  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



  そうそう…

  ここにAYAKO先生にお借りした       
  「山田耕筰の文献」があるの~~


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  この
  山田耕筰の書いた文献によると
  この曼珠沙華(ひがんばな)の
  歌い方に関して
  次のような注意書きがあるの。
  (いよいよ…よ~~っ)





  「泣きむせびながら、
   ゆれ下がるように」 から

  「自ら怯えているように震えて歌う」
  「きわめて悲痛に」

  「一節ごとに悲しみを加え、
   痛みを増したように」 に続いて
  「全く泣き叫ぶように」

   そして最後に
  「緊張から突き放されたように、
   悲しく、とぼとぼと…」
   となっているわ。



   むせび泣きながら
   怯え
   震えながら
   泣き叫ぶ…
istockphoto-1698042203-612x612.jpg
   なんて……


   どんだけ
   悲しい曲なのさっ
曼珠沙華 /









            
『GONSHANは死んでしまった子の墓に、
忌まわしい曼珠沙華を折りに来ます。
でもどんなに折っても
曼珠沙華が次から次へと開いていくように
GONSHANの心に刻まれた
「あの子を死なせてしまった」という深い傷は、
また再び傷口を開いて悔恨と涙の血を流すのです。』




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